クルマ“粋人”に聞く 近藤真彦「クルマへの憧れと情熱が、僕をここまで連れてきてくれた。」

トップアイドルとして時代を彩り、歌手・俳優として第一線を走り続けてきた近藤真彦さん。やがて飛び込んだモータースポーツの世界でのレーサー、チーム監督としての苦労や経験、そして愛車や家族とともに過ごす日常までを語ってくれた。

文・竹井あきら 写真・三浦孝明 Styling/Masaki Tanaka  Hair make/GONTA(weather) 撮影協力・KKRホテル東京

憧れのスーパーカーはカウンタック

「発表されたと同時に注文しましたよ。とにかくバカっ速いし、タイヤとホイールを換えてグリップも強烈。走らせてるとついソノ気になっちゃうよね。ちょっといいコーティングも奮発したから、ほら、ボディがツヤツヤでしょ」

スパルタンな愛車とは不釣り合いなほど相好を崩し、“マッチ”こと近藤真彦さんは愛車の「GT-R NISMO」を愛おしそうに撫でながら語る。

幼い頃、近藤さんの手にはいつもミニカーが握られていたという。

「ドアを開けたり、タイヤを押してクッションを感じたり、いつも触ってた。マツダ・サバンナやいすゞ117クーペがお気に入りでね。今もミニカーはたくさん持ってるけど、全部ケースから出してある。ミニカーは触ってなんぼだからね」

そんな近藤少年の心を奪ったのは、エキゾチックなスーパーカーだった。

「憧れのクルマはランボルギーニ・カウンタック。エンジンサウンドが収録されたソノシートも持ってたからね! 子供のころ、家のそばにロータス・ヨーロッパが入ってる修理工場があって、壁をよじ登って中を覗いては工場のひとに怒られてたな(笑)」

17歳から教習所に通いはじめ、18歳の誕生日には免許を取得した。免許が取れる前に買ってしまったという初めての愛車はBMW3シリーズ。「教習所に通ってる半年間、ビーエムを置いてる機械式の立体駐車場で、夜な夜なリフトを回して眺めてた」と振り返る。

免許が取れると、トップアイドルとして多忙を極める中、走りまくった。

「オートバイにも乗ってましたよ。最初がホンダCBX400F、それからCB1100にカワサキのNinja。『ザ・ベストテン』が終わって原宿の寮に戻ったら、霞が関辺りから首都高乗って1~2時間回ってた。中央道で相模湖にもよく行ったな」

ある時、仕事終わりに見かけたスーパーカーの存在感に痺れ、衝動的にディーラーに駆け込んだこともある。

「深夜のガソリンスタンドから白いテスタロッサが水銀灯に照らされて出てきてね、輝いてた。もう胸をやられちゃって、すぐコーンズですよ(笑)」

“マッチのマーチ”からモータースポーツの道へ

クルマとの関係で大きな転機となったのは1982年、初代日産マーチのCM出演だ。「マッチのマーチ」というキャッチフレーズで人気を博したが、CM出演の依頼があった時点では、排気量1リッターのコンパクトカーというだけで、まだ車名も知らされていなかったという。

「僕はスポーツカーとかカッコいいクルマが好きだったから、小さいクルマだと聞いてお断りしようとしたの。生意気だったから『だったらグロリアのCMやらせてよ』とか言っちゃって(笑)」

そこで日産から提案されたのは、「スポーツ仕様のマーチを作ってプレゼントする」というもの。晴れてCMは完成し、真っ赤なマーチが富士スピードウェイでお披露目された。そしてその場で“日本一速い男”、レーサー・星野一義さんと運命的な出会いを果たす。

「こんなカッコいい世界があるのか!って、衝撃でしたよ」

レースなどまったく知らなかったアイドルが、モータースポーツの世界にのめり込んでいった。初レースは30台中、最下位。それでも星野さんらの指導を受け、少しずつタイムを縮めていった。2000年にはレーシングチームを設立するが、「どうせアイドルのお遊びだろう」とまわりの目は冷ややかだった。「最初の10年は、サーキットに行くたび帰りたくなるくらいしんどかった」と吐露する。

けれどレースは実力の世界。結果を出せば認められる。レーサーとしては1994年ル・マン24時間耐久レースに参戦し、同年の全日本GT選手権では初優勝、フォーミュラニッポンへと実績を重ねた。チームとしては「マレーシア(2007年スーパーGT第4戦)で優勝したのを機にいいスタッフも集まってきて、今では外国人レーサーから『乗せてくれ』って言われるようになったよ」と胸を張る。2023年には元F1 パイロットの中島悟さんからバトンを受け、日本レースプロモーション会長も務めている。

レースと音楽と家族とアクセル全開の日々

毎週のように全国を転戦するレースだけでもハードな日々の中、芸能活動にも同じだけの精力を注ぐ。春はミュージカル、夏はバースデーライブ、秋には全国16カ所を巡るツアーも控えている。

「どこの地方に行っても本当にいっぱいお客さんが来てくれるし、昔より男性客も増えて、野太い『マッチー!』って声が聞こえるのがうれしいよね」

プライベートでは奥様と愛犬を乗せてGT-R NISMOで出かけることもあるそうだが、奥様からは「もうちょっと静かなクルマのほうがいいんじゃない?」と言われる、と苦笑する。そして愛息がもうすぐ免許を取るんだと、うれしそうに顔をほころばせた。

「息子とサシで話したんです、『近藤真彦の息子がオートマ限定はないからな』って。やっぱり息子がガチャガチャってギアチェンジしてるところを見たいよ。うん、楽しみですね」

そんな父親の顔を見せたかと思うと、「夢はキャンディみたいにいろんな色のスーパーカーを50台並べて、その真ん中にベッドを置いて寝ること」と少年のように瞳を輝かせる。純粋で憎めないワルガキの魅力は、年齢と経験を重ね、一層輝きを増している。

Masahiko Kondo
1964年生まれ。1980年に歌手デビュー、トップアイドルとして数多くのヒット曲を放つ。90年代からは本格的にモータースポーツへ参戦し、レーシングドライバーとして国内外のレースに挑戦。現在は自身のチーム「KONDO RACING TEAM」を率い、監督として活動を続けている。


NISSAN GT-R NISMO
日産のモータースポーツ部門「NISMO」が手がける最高峰モデル「GT-R NISMO」。専用チューニングを受けた3.8L V6ツインターボは600馬力を発揮し、空力性能や足回りもレーシングテクノロジーを投入。サーキットで培った技術を公道にフィードバックした究極のフラッグシップスポーツ。

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